稲村道雄(いなむら みちお)
当社相談役(誰も相談に来ない)
生年月日 昭和26年1月23日(71歳)
出身地 山形市鉄砲町(母の実家)
山形から3歳で川崎、横浜、藤沢2ヶ所と1年間で4ヶ所住まいが変わり、写真は藤沢市片瀬の自動車電機という、ワイパー製造の会社内の社宅にて留守番兼臨時工となった頃の写真。
父は稲村菊治で山形県東村山郡山辺町にて、母は山形市鉄砲町の吾住磯吉の6女で熱心な日蓮宗の信仰者であった。父菊治は5代福次の次男で大正7年生まれである。当時は兼業農家であったが、代々事業家の家系である。明治中期から山間部の部落で魚屋を営んでいたが、魚屋は仕出し屋もやり結婚式や法事も盛大に引き受けていたと聞く。また、代々愛妻家でお人よしであった性格から、人にだまされ店をたたむ繰り返しで波乱万丈であった。祖父福次は妻ふじのの結核の静養のため、暖かい海風のサナトリウムがある福島県平(現在のいわき市)に移り全財産を現金に換え、漁師相手に高利貸しで生計を立てた。しかし人の良さで詰めが甘く、いよいよ生活が成り立たなくなって、返済を強く迫ったところ、沖に連れ出され海に投げ込まれた、九死に一生を得るがその後このことが遠因でなくなる。折しも父が入学式の当日である。その後失意の中病床の母を背負い、山辺町の開拓村に入村する。これが稲村家の因縁であり、私の人生にこの因縁の納消こそが稲村家の反映につながると今も折に触れ思い出すことである。
1954年3歳、兄5歳、母33歳、父36歳、母は4年後37歳で胃がんで亡くなる。
母が亡くなってから、父は看病のため長い間会社を休んだことにより、また一からの再出発となり、臨時工の初任給から再スタートするのである。その後の2年間は民生委員から古着の下着などの配給があり、生活保護世帯同様の生活であった。近所の親から私とは遊ぶな(くさいから汚らしいからとのことで)と言われていたらしく、いつもひとりぼっちであった。後に父は再婚し妹を連れ戻したが、継母は山形の上山で看護婦をしていただけあり、無類の清潔な人で、古着ではあったが汚れた服など私たちに着せる人ではなかった。今も健在で90歳を迎えた。この母は働き者で生活もだいぶ楽にはなったが、朝から内職を手伝わされ、いつも学校は遅刻寸前で、よく泣きながら走って行ったが、兄は悠々と遅刻をしていたので、兄弟でもこんなに性格が違うのだと今でも苦笑する。兄をけなしてしまったが、私は誰を一番尊敬するかと尋ねられたら、いの一番に兄と答える。大変心の広い、他人思いで継母思いのやさしさは、逆立ちしても及ばない。頭もよいし、親孝行。欠点といえば少々時間にルーズなところくらいである。それもおおらかさと理解すると長所である。私はというと、お母ちゃん子であったため、継母にはなじめず、お互い相当の苦労をした記憶がある。今でもそのことは大変申し訳なかったと反省している。
私が高校3年の二学期に、父はプレスで切断した指先からの雑菌で(多分破傷風)重態になり、入院と長期休暇をとった。そのきっかけで生活は困窮し大学進学をあきらめた。しかし、クラスでは私以外は父親を直近で亡くした1人が夜学に入った(後に外務省に入った)以外は、全員4年制大学に進学した。私はこの宿命下に誓ったことがある。「俺は経営者になり金持ちになる」。この元一日(もといちにち)の志で人生を歩む決意をした。進学校で就職斡旋をしてくれなかったことで、私は天理市に6ヶ月の修養(当時は無料であった)に入り、教会長資格検定に合格し神主の資格を取った。
一時は宗教家として生きていこうとも思ったが、早く働いて家庭が楽になってもらおうと思い、家に戻った。ところで私は中学1年になるとすぐに牛乳配達のアルバイトを始めた。毎朝4時に起きて修養期間中と事故で入院中の3ヶ月間を除き25歳の結婚式の当日まで12年間続けた。給金は1万円ほどではあったが、すべてを袋のまま母に渡した。当家のお金の管理は独特である。次回はその話をしたい。
この工場は1970年秋兄と合流し、機械が2台に増設するため、藤沢の2坪の作業場から10坪の掘っ立て小屋を作った。土台がないため、建築確認は不要であったが、一種低層住宅地であったため工場は禁止であり、寝泊りが出来る場所6畳と洗面所トイレも備え、居住兼作業場とした。住宅地であったため仮設であり音もうるさいので早く工業団地に移る必要があった。この地で生産を開始した日、1970年10月1日を創業日とし、社名を稲村ディップと改名した。、現在この場所は兄と両親が住んでいる(綾瀬市上土棚北)
当家のお金の管理は継母が一手に管理し、父と兄の給料、母のパート代、私の牛乳配達代、後には妹が山武ハネウエルに入社し、その給料もすべて合算して、私用にはそこから小遣いとして、必要なときに必要な金額だけをもらうというシステムである。これは25歳に結婚しても、5年間は生活費のみを母からもらって生活していた。この考え方は今日に至るまで続いている。兄の家族の収入(4人分)と、私の家族というよりも、一族働き手の給料(5人分)すべてがガラス張りで、数年前までは本家の父が担当していた。90歳くらいまでは、週に2~3回銀行に入出金で通っていた。今はいったん私の妻のところで稲村家9人分の拘束金と生活費に分け、必要最低限の生活費を再分配する。拘束金は事業の節々で必要時に、身内から少人数私募債として会社に貸し付ける。銀行ならば期日にしっかり返済せねばならないが、このお金はある時払いの催促なしのため、いざと云うときに出す。今では総借金が8億であるが、その60%は-身内からの貸付金である。
このまま借金をしないと、2年後には事実上無借金になる。拘束金も総収入の50%近いので大きなお金もすぐに溜まるのである。これは稲村家の結束の固さであり、不況時に強い体質を自ら築いたこのシステムは、簡単に誰でも真似できるものではない。
20歳になった私は大和運輸(現クロネコ宅配便)にアルバイトで入社した。受持ち地域は、横浜の戸塚周辺であったが、いつも通る道に元気のよい会社が面白いものを作っている。ペンチの柄に赤の塩化ビニルをコーティングする仕事で、興味があったので荷物を届けた折に立ち見をしていた。ある日この仕事やらせていただけませんかと頼んでみた。ちょうど東京の本社から来ていた社長さんで、「坊主やらせてやるから修行にこい」との返事であった。きっと目をきらきら輝かせて興味深々で見ているのを何回か目撃していたのかもしれない。実際にやらせてもらう段階になって、そこの社長さんの弟が父の勤める会社の部下であったことがわかり、とんとん拍子に段取りがついた。それには父と社長の弟さんとの両友であった今は亡き、湘南コーティングの川村新一社長さんの仲立ちがあった。それではと、湘南コーティングさんの下請けとしてやらせてもらいたいと交渉をしたが、川村社長も心の広い方で、いいから直接やらせてもらいなさい、とのことで直接親会社との取引になった。
2週間の見習い期間が終了し、古いパン焼き器1台を貸してくれた。これが稲村ディップの始まりである。1970年、19歳、会社は個人企業で、とりあえず「サンワ産業」と銘々した。藤沢市石上の借家の脇に、わずか2坪のにわか作りの小屋ではじめたのである。書き忘れていたが私は電話恐怖症で出られない。理由は吃音者であったので、極端な劣等感があったため、乾物屋に勤めていた兄に社長になって来てほしいと懇願した。6ヵ月後に綾瀬市に仮設の作業場を作り合流し、兄弟2人で土日もなく働きづくめであった。兄は午前中は親会社に納入、午後は私と現場にてDIPの成形。夜は内職を回り選別作業や梱包、休日は湘南コーティングさんの作業場を借りて、成形機を自分たちで作った。はっきり云ってこの頃が一番楽しかった。
住宅地から念願の工業団地に移転した。2台の成形機は我々の手作り。3年後、結婚と同時に2階を増設し、事務所兼居宅とし、3年後1978年長男誠が生まれた。
創業わずか2年目の1972年兄弟一生懸命働いたおかげで、綾瀬市吉岡に70坪の土地に30坪の工場を建てた。借家の軒先で借金もできず、2坪で出発してわずか2年半である。しかし、同年秋は第一次オイルショックで、世界同時不況の年であった。折しも翌年3月9日交通事故に遭う。ちょうど自動ディップ成形機を開発して、試運転にこぎつけた矢先であった。右腎臓摘出、肋骨全骨折、腹膜破裂の重体であった。入院中であったがオイルショックの余波で、不況のどん底であり、毎日が開店休業、自動機の支払いは迫っている最中の出来事で、もう今月で廃業しようかと思った矢先に、日本最大のディップ会社(東洋樹脂化学)が倒産した。翌日から一気に24時間でも間に合わないほどの仕事が入り、会社は蘇るのである。退院後体調は万全ではなかったが、開発した自動機は順調に稼働し、翌年2台を増設し、3台の自動機でフル回転であった。正直大変儲かった。1975年には有限会社稲村ディップに社名を変え、社員2人を雇い、定年退職した父を加え5名になった。
私事であるが、交通事故に遭う半年前に、結婚を前提にお付き合いしてきた、妻清水絹代に、母は身体障害者になった理由で結婚をお断りするつもりで、家内の実家に行ったところ、向こうの親も本人も異口同音で、障害者であっても構わないとのことで、母はいたく感激して結納金を相当額渡したそうであった。絹代はそっくりそのまま現金で持参し、会社の運転資金に使ってくださいと母に渡したとのこと。当時母が全てのお金を管理していたが、このお金だけは別にして、いざの時のために定期預金にしていたそうで、そのお金が1979年のニクソンショック時に、もうこれでおしまいかと、切羽詰った時に当社を救うのである。
創業して10年間に2度の危機を乗り越え、なんとか順風になりかけた1986年、またも大きな節を迎えるのである。1984年に満を持して150坪の3階建て新社屋を建てた。その2年後親会社から突然の仕事全量の引揚げである。3度目の危機である。当時親会社が300坪の貸工場で創業しているのに、下請けの当社が鉄筋コンクリート建ての自社ビルを持ってしまったのだから、その気持ちは十分わかる。確かにその頃の私たちは有頂天になり、怖いもの知らず。親会社には経緯を説明せず無断で営業に出向き、得意先を開拓していった。親会社にも横柄で、それ見よがしに振舞ったのであろう。いわば天罰である。その後何回か社員に独立をされ、初めて裏切られた親の気持ちがわかるのである。親会社、仕入先、お客様全てに感謝をしなければ生きていけないということを思い知った出来事であり、悪いことをした社員や仲間を厳罰に処したりしてはいけないこと、人が人を裁いてはいけないこと。神が自然の摂理で人を裁くのであることを、神主の資格のある私が忘れていたこと、深く反省させられた。
1984年藤沢市用田に3階建ての自社ビル完成。2年後に大きな節が訪れる。
1986年親会社からの仕事引揚げの責任をとって兄から私に社長が変わった。この件は兄より私の方が暴走したことの原因であったが、兄が社長としてのけじめと責任をとった形になった。その頃の社員は、親族では私、兄、父、絹代、みつ、金戸(従兄)、稲村弘幸(従兄の子、後のニッセイ山形の社長)、また、広江幸子(岡村の義母DIP)、船木道子(DIP)、横田弘(大型炉)、関祥江(内職周り兼事務員と親族7名と社員5人の12名であった。
社長就任後目標は「下請け脱却」を掲げ、全員に目標達成まで昇給を待っていただいた。親族は給料3割カットで、親会社に迷惑のかからない海外進出を実現すべく、タイにニッセイトレーディングタイランドを設立する。同時期に日本ゼオンに関連した方で、山田保先生を迎え、ディップのゾルを製造開始する。思いの他順調に伸び、昇給凍結も2年で終わった。1992年にバブルの崩壊で、株式投資や不動産に手を出したり多額の借金で新社屋などを建てたところは、大きな痛手を被った。しかし、その間、下請け脱却で余裕資金のなかったおかげで、当社は無傷でその後も拡大路線を歩んでいく。禍が福と化した時期である。その頃入社した人は、和田ひろこ(真践君の母営業担当)、馬場登志子(総務)、内藤洋司(金型)、山田保(原料開発)、小松英子(出荷担当)、田辺順子(受発注購買)、寺島節徳(常務)。特筆する点では、原料を内製化したことと、18歳で工業高校出の新人、内藤君が自社で使う金型を内製化したことである。彼は独学で射出型の製造システムを確立した。これが当社がオールインワン工場として躍進していく礎を築いてくれた。
1991年に忠誠心と愛社精神を持ってもらうため、私は自分の持株の半分を社員に安く購入してもらった。当時15万円であった。その後株の分割を2度にわたり実施し、2株が3年間で5株に増えた。今株価115万円であるから約8倍になっている。分割前に購入した人たちは16倍になった。1986年から1996年くらいの10年間は人手不足で不法の外国人労働者も何人か雇っていた。私は不法外国人の人権を守るための団体を設立し、加盟20社150人に及ぶ外国人に自主保険をかけたり、会員会社に生活指導をするなど、複数回テレビで放映され新聞に掲載され、警察も相談に来るようになった。その間仕事は順調で、1994年に上海に進出した。
1997年になると世間ではダイオキシンや環境ホルモンなどの問題が大きくなり、脱塩化ビニルの運動が盛り上がってきた。当時は塩ビ主体のディップが95%を占めており、脱塩ビとしては射出成形機が2台あるのみであった。このまま、塩化ビニル主体では会社が成り立たない、代替品を考えるようになった。1999年コルゲートチューブを製造している那須の大明電装を譲受け、同時に本社新館を隣の日東社から購入し、本格的に押出成形を開始し、内藤君の独学で金型につぎ、機械までも自社で製造することになる。塩化ビニル一辺倒であったが、職種転換や、ビニルに変わるエラストマーやポリプロピレンの製品を製造し始め、それを機会に社名もエコロジーのイメージから「ニッセイエコ」と改名した。当時はエコという言葉もまだ浸透していない時期ではあったが、慰安旅行のご一行様名は「ニッセイエコー」とよく書き間違えられた。確かにエコーの方がしっくりし、エコという語呂がなんとも尻切れトンボみたいで違和感を感じ、しばらくは馴染めなかった。2000年前後には、身内からは誠(大型炉)、学(那須工場)、重成(開発とPCシステム)、隆行(押出)、大木(経理)、関根明(品管)及び加藤いずみ(総務)、和田真践(開発)、和田真実花(営業)、崔紅梅(新規事業)、神保孝太郎(ゾル開発)、田中雄二(那須工場長)、室井美恵子(那須総務)、本多佐恵子(那須受発注)などが入社している。
2001年には射出成形機を倍増し、黄観喜氏の独特の営業力で大手電線メーカーなどの上場企業の多数の口座を取得していった。変な中国人が営業に来て、仕事をみんな持って行ってしまう。という噂が経った頃である。その後馬場登志子が取締役に付き1999年から2008年まで、実に国内4倍に海外は8倍の成長を成し遂げたのである。どうも私は女性と組むと力が発揮するタイプである。確かに歴代優れた功績を上げた社員は、馬場登志子、関祥江、広江幸子、船木道子、和田ひろ子、田辺順子、東智子、和田真実花、新岡正恵、崔紅梅、李海英と女性陣。男性では寺嶋節徳、関根明、笹尾康彦氏くらいである。しかし世代交代期に入り、最近は山口、上田、井上、船木、宇田、小台と若手男性が成長してきている。また、彼らは海外にも通用するマネジメント力を身に付け、将来が楽しみである。(近年は社員も大分増え、専門に特化し、ここで紹介したい優秀な社員も多くいるが、限られた紙面上、割愛することお許し願いたい)。
履歴書はひとまず2000年までで、これ以降はまた紙面に余裕ができ次第順次追記掲載していきます。